嵐から考えるジャニーズって。

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いろいろと書きなぐるので、伏せておきます。

今回話は大きく分けて二つ「今回の握手会の愚痴」と「ジャニ舞台と一般化」です。


セクゾンちゃんの握手会に外れました。
仕方ないと思う反面、やるせない気持ちに襲われています。

握手会が好きか?と言われると、そうではありません。できればしてほしくない。
売れないからの握手会という事もそうですし、もともとそんな至近距離で会うことにためらいもあるのです。でも、握手会をするというのなら、行きたかった。自分の感情はあやふやなもので、握手会というイベントがないことを望みながらも、握手できるタイミングがあるなら、行きたいのです。
それは、握手をするというよりも、彼らに会いたいのです。
握手会は抽選。外れる人もいるわけですが。

嵐も握手会がありました。デビューのときと、ハダシの未来の発売時、WISHの発売時。でも、これらは並べばよかったわけで…。私はWISHのときしか行けませんでしたが、そのときは本当に売れて欲しかったので、並ぶのに何の躊躇もなかったです。
そして、セクゾンちゃんの握手会もこれまではそうでした。買えば参加できる。売れて欲しいから買う気持ちは、彼らが手を握ってくれることや顔を見せてくれることで昇華出来たように思います。1年前の握手会の嬉しさは、今でも思い出せます。

ところが、今回は当初から割り切れない思いがありました。
買っても当たらないかもしれない。出来ないかもしれない。売れて欲しいけど、買うけど、握手は抽選。ファンの足元を見ているなぁと思うのです。売れて欲しい、握手会に行きたい。そのためにはある程度の枚数を買うけれど、その買った気持ちが彼らとの握手となって昇華できるものではない。このジレンマ。
おまけに、握手会参加申し込みが可能な時点で5万枚程度の売り上げで、そのうち3万人が握手会に参加できるはずの割合。そこで、ある程度の枚数を購入して申し込みしてるのに、ポコポコと落ちているって、なんだろう?って話です。
当たったら、こんなことを書かないだろうから、まぁ、落ちた人間の愚痴なのです。

確かに嵐のイベントでも外れて悔しい気持ちになったことはたくさんあります。でも、アルバムという本人たちの売り上げに貢献するためのイベントで、そういう気持ちになったことがなくて、今回の落選に際して、どうにも寂しさがぬぐえないのです。

嵐と違ってセクゾンちゃんにはまだまだ狭い会場で会えるタイミングはたくさんあります。
コンサートにしても、今やっているジャニワにしても。会おうと思えば会えるのです。
でも、だからこそ、その機会をゲットした時の嬉しさと逃した時の寂しさ・悔しさに自分が疲れているようにも思います。

だとしたら、やっぱり私にとって、握手会は賛成しかねるイベントなんでしょうね。

そして、上記した「狭い会場」というものについて。
嵐ではなかった、いわゆる「ジャニーズの王道」というもの…つまりはジャニ舞台を見る機会が増えました。サマリー、ジャニワ…
しかし、これが自分の心に刺さる演目ではない事のストレスも感じているのです。

サマリー。コンサート形式の梅芸の演出のほうが、私は好みです。歌やダンスといったパフォーマンスが主軸となり、それを楽しめました。それがサマリーとなり、フライングや水の演出が追加されたときに感じたちぐはぐさ。フライングも良かったですけど、、、水も良かったですけど、、、風磨くんのrougeなどは確かに水がいい演出をしていたと思うけれど。彼らのパフォーマンスよりも演出に中心な構成に感じて。不必要だな、と感じた所もチラホラ。

そして今行われているジャニーズワールド。ジャニーさんが自分の好きなものを詰め込み、ジャニーさんのジャニーさんによるジャニーさんのための舞台がジャニーズワールドなのだとしたら、私はジャニーズワールドの住人にはなれませんね。ジャニーズは好きだけど、ジャニーさんの趣味趣向が好きでないと言うことがはっきりわかりました。
(これについては、こちらにも

ジャニーズの舞台は正直、ファンでないと見る価値がないと言えます。
それが好きな人もいるのは承知の上ですが、例えば全くジャニーズに興味がない人が趣味としてステージを楽しむ際、ジャニ舞台はハードルが高すぎるのです。ファンでないと前提条件がわからない、ジャニーズに詳しくないと意味がわからない。それがないと楽しめない要素が多い。

だからでしょうか。ジャニ舞台は「一般化されにくい」と思うのです。そこに出演する人も、一般化されにくくなっていくのです。

嵐は舞台をやっていても、外仕事として、他の劇団の方や演出家さんと組んでやる芝居でした。
多くの観客は嵐担ではありましたが、共演した俳優さんやその方を観に来られた人、専門誌の取材の方を通じて、嵐の魅力は外に配信されたように思うのです。
サトシのプーシリーズ、ニノのシブヤ、バさんの燕、翔ちゃんのWSS、潤くんのワルキューレ…大きな転換期となった舞台のラインナップを見て、今更ながらに震えます。これを嵐のファン以外が見ても、私は十分に楽しんでもらえるものだと思っていますし、実際、そうだったとも思っています。

一般化しないと売れない、それは当り前の事だと思うのです。だとしたら、セクゾンちゃんには一般化してほしい。そうなるとジャニさんプロデュースから切り離されたほうがいいのかもしれない。

まぁ、とどのつまりは私が握手会に落選し、ジャニワがあまりにトンチキで受け入れられなかったということではありますが、それがこじれてこんなことを書きなぐっているんですけどね。

ジャニーズらしさが抜けたグループ、それを引きずるグループ、いろいろとある中で、これまで嵐は「ジャニーズらしいグループ」だと、私は思っていました。
歌って、踊って、芝居して、バラエティに出て。
アイドルとして求められている多様性をしっかりと発揮してきたグループ。全方位ゼネラリスト集団。

ところが、ジャニーズとしての真髄に触れると、その定義は崩れるのです。きっとジャニーさんが夢や希望を託したのは嵐ではない。嵐はジャニーズの看板を背負いながらも、一般化する事で自分たちの居場所を芸能界に作ってきた。それを私が好きになった、ということなんでしょうね。ジャニーズのお家芸を好まないのは、そういう嵐を好きになったから。そして、嵐と同じように独自の生き残り方をセクゾンちゃんに生み出してほしいからなのかもしれませんね。